未解決の文字

もひとつブログです

「風の歌を聴け」をこんなふーに読んだ

風の歌を聴け」の感想書くと、ぜったいネタバレになっちゃうから、それがイヤな人はこれ、読まないでください。

 

 

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

 

 


-------

完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。


この一行からはじまる「風の歌を聴け」、すごい時間かけてやっと読み終えた。

最初っから、すっごいキザだなー、って思った。
すぐにわかりやすいストーリーがはじまるわけじゃなくて、自分の思いついた言葉をただテキトーに書きとめてるみたいな感じで。

 

僕は文章の多くをデレク・ハートフィールドに学んだ。


いちばん最初に出てきた固有名詞は、私の知らない作家の話だった。
この主人公は、この小説の形した文章を29歳の時に書いて、その時も主人公はハートフィールドに心酔してる。

 

今、僕は語ろうと思う。

 

って、書きだしたこの話。


そして、

 

しかし、正直に語ることはひどくむずかしい。僕が正直になろうとすればするほど、正確な言葉は闇の奥深くへと沈みこんでいく。

 

ってこと、「僕」は言ってる。


それからまた、ハートフィールドの著作から引用してみて、また「僕」は、

 

僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識するものの間には深い淵が横たわっている。どんな長いものさしをもってしてもその深さを測りきることはできない。僕がここに書きしめすことができるのは、ただのリストだ。…(略)…まん中に線が1本だけ引かれた一冊のただのノートだ。

 

って、言ってる。


そのリストっていうのは、

 

僕はノートのまん中に1本の線を引き、左側にその間に得たものを書き出し、右側に失ったものを書いた。


っていう、「得たもの」と「失ったもの」のリスト。


こんなふーに、なんかよくわからない散文が最初にずらずら書かれてあって、それからやっと「鼠」が出てきて物語がはじまる。


文章はずっとキザで、日本ってぜんぜん感じれないよーなアメリカ風の描写で、食べるものや飲み物、車、音楽、そーいうのは固有名詞がバンバン出てくるのに、物語に出てくる人物で名前がついてるのはジェイズ・バーのジェイぐらいで、主人公の名前だってでてこない。


舞台になってる地名も出てこないから、どこにいるだれの話か、ってことに固有の記号がないの。


こーいう作風とキザな文章を狙ってる作家なのかなー、って思いながら、すっごい軽い文体と中身の薄いストーリーを楽しんでた。


最初は、ね。


10円玉が出てきて、「あー、ここ、日本なんだー」って驚いて、「10円玉」っていうアイテムが物語の世界にちょっとだけ固有の情報をつけてる。


その発見のおどろきの楽しさ、10円玉で最初に体験したから、私はこの小説、最後のほーになってもっとすごい仕掛けに気づいた。
「あー!」
って、ほんとに声出たし。


気づいたのは、ハートフィールドの作品「火星の井戸」の引用部分だった。
火星人が堀った火星の井戸にひとりの青年が入り込んで、井戸の中をいろいろ彷徨うんだけど、またそのうち違う井戸に出て、そこから地表に戻るの。
そこはおなじ地表のよーで、潜る前に見た太陽と、出てきたあとに見えた太陽が違うのに気づくの。
井戸は時の歪みに沿って掘られたもので、井戸からまた出てきた時はすっごい時間がたってて、太陽の寿命はもう終わりに近づいてた、ってわけだったの。

 

君が抜けてきた井戸は時の歪みに沿って掘られているんだ。つまり我々は時の間を彷徨っているわけさ。宇宙の創生から死までをね。だから我々には生もなければ死もない。風だ。


井戸から出てきた火星の地表の「風」が青年にそう語る。


このシーンで、私は「あー!」ってなった。


風の歌を聴け」っていうタイトルの意味。
それがわかった。


それから最後まで読んで、また最初から読み直した。
読み直さないと、私の頭では答えあわせができなかったから。


二度目に読み終えた時、冒頭の「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」ってキザったらしい一行、これにちゃんと意味があったんだ、って気づいた。


これはただ、キザな言い回しの軽い文体で書かれた話の薄いアメリカかぶれの小説、なんかじゃなかったんだねー。


すごいナゾ解き。


最後までこのナゾは春樹のおじさんは明かしてくれなくて、読者を試してる。


「進撃の巨人」もすごい伏線だらけで、それはちゃんと回収されてってる。
でも伏線の答えあわせは、ちゃんと作者のほーから説明してくれてる。


春樹のおじさんは、そんな親切じゃないの。
伏線を散りばめて、問題を出して、それで終わり。


この小説を「つまんない」って批判する人を、きっと面白がってるんだろーなー、って思った。


スプリさんは、この小説、面白かったって言ってたけど、でも私の読解力は「かんがえすぎ」って言うから、私の読解力ってこんなだった、ってこと、そのままここに書いておく。


それがぜんぜん間違った読み方してるかもしれないけど、私の頭でこの小説、こんなふーにとらえた、っていう記録。


--------


「鼠」が最初に、

 

「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ。」


って言って、それから「鼠」は口つぐんで自分の手の指を丹念に眺める。

 

10本の指を順番どおりにきちんと点検してしまわないうちは次の話は始まらない。いつものことだ。


「鼠」が出てきたっばかりの時に、もーちゃんと書かれてたんだよねー。


「僕」が出会った女の子は、指が4本しかなくて、嫌なことが起こっていて、それで子供堕ろして。
出会った場所は「僕」が「鼠」を呼び出しても電話にヘンな女が出るだけで諦めたジェイズ・バーで。
その晩、記憶をなくしたその彼女と「僕」が話した会話は「ジョン・F・ケネディー」。


「鼠」はそれから、女のことでいろいろ悩んでるみたいで「僕」に相談しよーとしてたけど、やめて。
「鼠」の家はとってもお金持ちで、「鼠」は小説を書きたくて、その内容は太平洋のまん中で船が沈没して海に漂ってたら、同じ遭難中の綺麗な若い女と出会って、でも海でいったん別れてまた再会して、その時その女に「鼠」は「ジョン・F・ケネディー」の言葉を話して。


このケネディガールはおなじ女の子、なんだよね。


これは私の想像でしかないけど、「鼠」の家は金持ちすぎて、指が4本しかない女の子との交際を認めてくれなかったのかもね。
「僕」はそんなこと知らないで、その女の子と知り合っていく。


「僕」がその女の子と少しずつ関係を深め合っていくあいだ、「僕」が「鼠」と会う時はいつも「鼠」は本を読んでた。

 

私は貧弱な真実より華麗な虚偽を愛する。

 

優れた知性とは二つの対立する概念を同時に抱きながら、その機能を充分に発揮していくことができる、そういったものである。


こんなこと書かれた本を「鼠」は読んでた。

 

そのほかに、「鼠」は自分が読んだ小説の話も「僕」にしてたんだけど。
30歳ぐらいの女がオナニーをみせる小説。


「僕」は「鼠」を待ってるジェイズ・バーで、なんどもどこかに電話かけてる30歳ぐらいの女と出会う。
その女が「僕」に待ち人の性別を聞いてきて、「僕」が「男です。」っていうと、女も同じ、って笑う。


だから私、その女と「僕」が待ってる男って「鼠」で、その女が「鼠」が読んだっていう小説にでてきた30歳ぐらいのオナニー女なのかなー、って思った。
「鼠」が読んだっていった「小説」は、ほんとの小説なんかじゃなくて「鼠」に起こった物語じゃないのかなー、って。


だから
「私は貧弱な真実より華麗な虚偽を愛する。」
って言葉を「鼠」がわざわざ引用したのは、指が4本しかないケネディガールとほんとの恋をしながら、オナニー女に惑わされてて、ケネディガールが「貧弱な真実」で、オナニー女が「華麗な虚偽」なのかなー、って。


それからケネディガールは中絶手術を受けるんだけど、その時「鼠」が読んでた本は、
「再び十字架にかけられたキリスト」
っていう本だった。


「鼠」の読んでる本が、「鼠」の心理をあらわしてる。


「僕」は、いままで寝た3人の女の子の話もいろいろ書いてる。


1人目の女の子は、「僕」にレコード貸したままになってて、「僕」は突然その子の行方を探すんだけど、その子は大学を中退してどこかに消えちゃってた。


3人目の女の子は、「僕」のペニスを「あなたのレーゾン・デートゥル」って言った子で、この子は大学の時、突然自殺しちゃった。

 

何故彼女が死んだのかは誰にもわからない。彼女自身にわかっていたのかどうかさえ怪しいものだ、と僕は思う。


って書かれてるとこ、最初に私が読んだ時、この小説の中身が薄いのは、こーいうカッコつけだから、って思った。


自殺した子の人生なんて、他人の目にはとっても薄い他人事で、そこに踏み込まない無責任な生き方ってとってもラクで恰好いーよねー、って、白けた気持ちになった。


でもでも。
この小説、最後まで読んで、春樹のおじさんのナゾかけに気づいて、それからもー1度読み直して、この箇所に来た時、私はハートフィールドの言葉の意味がわかったの。

 

僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識するものの間には深い淵が横たわっている。どんな長いものさしをもってしてもその深さを測りきることはできない。僕がここに書きしめすことができるのは、ただのリストだ。…(略)…まん中に線が1本だけ引かれた一冊のただのノートだ。


「僕」がこーやって、すごい淡々と他人事のよーに書いてる表面的なこと。


「鼠」が「読んだ小説」や「書きたい小説」にたとえて語ること。


これは、ふたりそれぞれが、「出来事」と「自分」の間に距離作ってて、この物語はこの「深い淵」に気づいた「僕」が、その「深い淵」をありのままに書いてる物語なんだ、って私はわかった。


21歳の時、「僕」が気づいてなかったこと。


「鼠」の女と「僕」は三角関係になってたこと。


「僕」が最初に寝た女の子は、最後にラジオに手紙を送ってきた女の子のお姉さん、ってこと。


それと、これはスプリさんは「考えすぎ」って言ったけど、「僕」が三番目に寝て自殺しちゃった女の子は、指が4本しかない女の子の双子の妹かなー、って。


妹は三万光年ぐらい遠くにいる、ってケネディガールは語ってる。


顔もそっくりって双子なら「僕」は気づくはず、ってスプリさんは言ったけど。


でも「僕」は自殺した彼女の写真も持ってて、綺麗な子って言ってるけど、そのあとで、ケネディガールから、

 

「誰か好きになったことある?」

 

って聞かれた時。

 

「ああ。」
「彼女の顔を覚えてる?」
 僕は三人の女の子の顔を思い出そうとしてみたが、不思議なことに誰一人としてはっきり思い出すことが出来なかった。


って書かれてる。


知ってるはずの顔を覚えてない。
そんなふーに、「僕」にとって「僕」にかかわった人たちはみんな深い淵の向こうにいるから、自殺したことだって「僕」にとって、とても距離のある話になってる。

 

だから「僕」が語る物語に出てくる「僕と関係ある人たち」には固有名詞がないんだね。


その三番目の彼女が「僕」のペニスを「あなたのレーゾン・デートゥル」って言ったのは、このことだったんだと思った。


ペニスで関係を作ってきた人に、「僕」の認識は「深い淵」を作ってきてる。
僕が認識しよーとするものと僕が実際に認識するもののあいだにあるこの「深い淵」の部分に、「僕」の存在理由があるんだ、って思った。

 

しかしそれはまるでずれてしまったトレーシング・ペーパーのように、何もかもが少しずつ、しかし取り返しつかぬぐらいに昔とは違っていた。


「僕」の「認識」は、「実際の出来事」と深い淵があって、そのずれに気づいたけど、正直に語ることは難しくて、正確な言葉は闇の奥深くへと沈みこんで、結局深い淵を語れる完璧な文章なんて存在しなくて、その淵を語り切れないうちは、「僕」はほんとーの絶望もできない、ってこと。


そー、私には読み取れた。


だから私は、この小説を読んだあとで、デレク・ハートフィールドの本も読んでみた。


春樹のおじさんがいくつも散りばめたナゾを、ひとつひとつ拾い歩く気分で。


私もハートフィールドの「気分が良くて何が悪い?」が好き。
春樹のおじさん読んだ人に、とっても響く本だと思う。


自分の本棚に、ハートフィールドの本を春樹のおじさんに並べたよー。