幻想ダンス
Re:詐欺師と幽霊 - ヘリベマルヲの よりぬき鬱日記
私は、秘密の穴から漏れた言葉が「真実」そのものとは限らないし、嘘をダダ漏れさせる穴を持つことが「正直」とも限らないかなー、って思う。
たとえば、今回の作曲家の話も。
世間に嘘がバレて、片棒担いでたひとりがその嘘をいろいろ言葉にして語ったけど。
でも、その言葉が「真実」とは限らないよね。
暴露された言葉をいろいろ見聞きした私たちは、その「嘘」についていろんな憶測たてて、勝手な見解を語り尽くす。
でも、その中のどれが「真実」か、だれにもわからない。
だからいろんな見解を、真実を知らない人たちが語ることの意味って、あるのかもわかんない。
だれかの見解が多くの人たちから支持されたからといって、それは「真実」を突いてないかもしれないし、多くの人たちが「これはきっとこーいうことだったんだ」って納得しちゃうことで、「真実」とものすごい遠いとこに「結末」を置いて、ピリオド打っておしまいにしてしまったり。
言葉は「できごと」を可視化させるひとつのツールだけど、それが正確とは限らないから。
悪事がバレて、それをいろいろ検証されて、第三者の手でその悪事がどんなものであったか、説明される。
裁判なんかもそーいう形だけど。
でもそこで出た「判決」の罪状が、「真実」を突いてる、って限らないよね。
罪人が「自白」した言葉だって、それが「真実」とは限らない。
秘密っていうのは、穴から漏れたあとは、その秘密を見聞きした人たちの解釈が混じって、純度が低くなる。
秘密が漏れる、っていうのは、隠してたいことがバレてしまうリスクと共に、自分の秘密を他人から勝手に解釈されるリスクも伴うよね。
自分に正直でいるっていうのは、自分を言葉にして語らないこと、かもしれないよね。
ここ数日、ネットで「生きる意味」について、いろいろ語られてるけど。
それだって、自分で「意味」っていうのを頭で言葉にして考えても、そこで思い浮かんだ言葉にこんどは自分が縛られて、自分が考えた生きる意味に従って生きるよーになっちゃう。
文章にして表に出して書いてみれば、それを読んだ人たちがこんどは勝手な解釈で受け止める。
第三者が勝手に解釈する「生きる意味」は、もう、自分の生きる意味、なんかじゃなくなっちゃう。
言葉は、考えるとっかかりにはなるけど、語ることで真実の所在地は示せても、真実そのものじゃないから、言葉=真実、っていうのがもう幻想で、もしかしたらなにかしらの悪事を「告白」する人だって、告白の言葉がその幻想を利用した演出かもしれない。
死ぬ直前の人の言葉だって、真実のもの、って限らない。
だから、遺書こそ真実が書かれたもの、ってわけじゃない。
自分の心の穴から漏れた本心は、だれかの目に触れる形になった時に、それはもう自分のものではなくなっちゃう。
解釈した人のもの、になっちゃう。
だから、自分を少しも偽りたくないならば、なにも語らないこと、かなー、って思う。
私も、他人なんかに解釈されたくないものを持っていて、それは一生、自分の中から取り出さない。
だれも見ないと思ってる日記帳なんかにも書かない。
言葉にしない。
穴から漏らしたものには、生死を鍵預けるっていうこと以外にも、自分のものだった秘密の定義を他人の辞書に勝手に書き込ませる監修許可証が添付されてるんだと思う。
自分の思考を他人に勝手に定義づけされてどこかに書かれるぐらいなら、自分で書いちゃえー!
っていう、それが「小説」かなー、って思う。
その小説だって、読者が勝手な解釈をして、その読者のもの、となってしまうけどね。
でも、最初に言葉にした人が、最初のミスリードの鍵を握れるから。
告白も、小説も、遺書も、それが自分から出た言葉であるなら、自分の真実とかけ離れた真実を演出することもできる。
人は、その最初の言葉の上で踊りだす。
踊らせる人、踊る人。
どちらも正直者なんかじゃないのは確か。