「あそびあい」読んだ―
@luvlife_htn はじめまして、いつもはてなブログ面白いなーって読んでます。最新の記事読んでたら、ミカサさんの理想とする「悩まないビッチ」って、漫画『あそびあい』の主人公みたいな人かなーって思いました。機会があったら読んでみると面白いかもです。
— なな・ふっかふか (@7_fuka) 2013, 11月 25
ツイッターで、そんなこと言ってくださった方がいたので、「あそびあい」読んでみた。
このヨーコっていう女の子(表紙の子)は高校生なんだけど。
読んでて、
「えー、これ。私ー?」
って、
「えー。えー。えー」
が連発しちゃうよーなキャラだった。
性格が、っていうんじゃなくて、セックス観、が。
ヨーコは、
「したい人とすればいーじゃん」
っていう考えの人。
そのヨーコを好きな山下は、
「好きなら、体だけじゃなくて全部ほしくなる」
人で、
「ヨーコとしかやりたくない」
人で、
「オレだけを好きにさせてやりたい」
って思ってる。
ヨーコの親友のみおは、山下が好きで、でも山下からはヨーコの相談相手にされてて。
みおが先生を好きな時、それに気づかないでヨーコはその先生とえっちしちゃって。
(ここは本編とべつの時系列の短編だよね)
ヨーコはみおが好き。
ヨーコにとって、みおは大事なともだち。
みおも、ヨーコは大事なともだち。
こんな三人の話になってる。
ヨーコは山下としょっちゅうえっちするけど、ほかの男ともするし、山下がほかの子とえっちしてもかまわないって思ってて、山下は結局片思い。
それを山下を好きなみおに、山下がいろいろ相談するから、みおはいつも悲しい気持ちをガマンしてる。
ヨーコが山下を傷つけてるのに、その自覚も罪悪感もぜんぜんない態度にみおがキレちゃって。
でも、ヨーコはそんなみおからひっぱたかれた理由は、ぜんぜん男とかセックスとか関係ないことだと思って、的外れな仲直りしかしない。
みおはそんなヨーコに、仲直りの条件に、
「山下と、もーやらないで」
って言いたくなる。
でも、そー思いながら、みおはヨーコに、山下とつきあえ、って言っちゃう。
それでヨーコは、山下とつきあっちゃうの。
みおと仲直りしたくて。
山下はなにもしらないから、やっと自分のモノにできた、って喜ぶの。
でも、ヨーコはそれでもほかの男とえっちはしてるんだけどね。
こんなふーにあらすじみたいなことだけ書くと、ヨーコがすっごいひどい女にしか見えないかもしれないけど。
読んだ人たちの感想とかいろいろ見たら、やっぱりヨーコを批判する人、おおかった。
ヨーコを「ひどい女」って思う人には、ヨーコをぜったい理解なんてできなくて、そーいう人をヨーコもぜんぜん理解できない、って思う。
そーいう、感覚の違い、を描いてる作品なんだと思った。
だから、「ひどい女」って批判したって、意味がないんだよね。
「ひどい女」を「ひどい」って吐き捨てる自分と、その「ひどい女」のあいだにあるものはどんな壁?
っていうギモンを感じさせる話、なんだから。
でも、このヨーコ、ってキャラは、セックス観は私に似てるー、って笑えるぐらいだけど。
読み終わると、そんなふーに感じなくなる。
このヨーコって、「自分の性欲に忠実」で「モラルとかなにも考えてない」っていうキャラをたたせよーとしたからなのか、なんかの脳の障害みたいに、そもそも思考の軸が違いすぎる感じがしちゃう。
ほんとに、ヨーコはだれの気持ちもわからない。
自分から見える相手しかわからなくて、その人の見えない心の中、をぜんぜん想像できないキャラ。
これって、性欲をコントロールする機能がないまま、目の見える現象だけがすべてに思って、それを男から利用される、っていう感じに私はとれてきた。
こーいうヨーコの描き方に、私ははまりきれなくて、途中からなんかモヤモヤも湧いてきた。
男を弄ぶビッチなんかじゃなくて。
こーいう女の子を性欲の対象にできる男のオモチャにされてるなー、って。
すごい勝手に生きてるヨーコを、みおだけがなんとか手を離さないでいる。
山下のは、ヨーコを守る愛、なんかじゃないから。
「オレだけのものにしたい」っていう恋愛感情は、
「えっちしたい時にしちゃう」っていうビッチ感覚と、おなじだよねー。
自分の欲を貫きたい、っていう点で。
みおは、ヨーコの心を手に入れることが自分の欲望にはなってない。
見返りをなにももとめてない友情。
山下のは、「オレのものにしたい」っていう見返りを、「恋」とか「愛」とか言葉できれいなものにみせて、自分の欲の自覚を鈍らせてる。
山下は自分がヨーコよりきれいだと思ってるからね。
それって、だれとでもえっちしちゃって、「男の気持ちなんてなにも考えてないひどい自分」っていう自覚ももたないヨーコと、違わないよねー。
「オレとだけえっちしろ」っていう性欲と、
「したい人としちゃう」っていう性欲は、
前者がきれいで、後者が汚い、って思ってる人、すっごいめんどくさい。
おなじだよー。
おなじ。おなじ。
おんなじー。
きれいな愛のつもりなら、相手のありのままを尊重するでしょ。
相手を変えさせて、自分の思いどーりにしたがるのは、愛、じゃなくて、欲、だから。
だから、こーいう、
「一途な恋心」と「ビッチ性」を対立させて、どっちかに真理があるよーな話なんかにならないでいってほしい。
山下は重いよ。
その重さは、「恋」って箱にとじこめると、それは「一途」っていうきれいな輝きを放つ。
宝石みたいにね。
でも、「恋」って箱から取り出したら、それはただの「押しつけ」っていう、石を荒削りした矢じりでしかないから。
「好きだから」
っていうのを免罪符にして、自分の欲を相手に飲ませたがるのを、「きれいな恋」なんて思う人が私は苦手だから、私は恋愛にそそられないのかも。
私とヨーコが違うのは、ヨーコはほんとに自分の性欲の放ち方に悩まない。
私は、まだいろいろ悩む。
「ビッチになりたい」
なんて言い方してるのは、ヨーコみたいに、
「したい人とすればいーじゃん」
って言葉、すっごい無邪気な笑顔で言えないからなんだと思う。
「ビッチになりたい」
っていう言葉をわざわざ吐くことで、私は自分に「ビッチ」っていう名札つけてる。
名札は、自分の外からつけるものだから。
名札を自分でつけて、それから私は、その名札を裸の皮膚にとめるピンの先で自分の性欲をひきだす穴を開ける。
ヨーコは、そんな名札もなくて、ヨーコの中から無邪気な性欲が放たれる。
そこが私とヨーコの違い、って思った。
私はまだまだつまんない感覚の膜、剥がし切れてない。
ヨーコぐらい性欲に無邪気になりたい、って思うし、でも、私はこのマンガのヨーコの描き方がそこまで好きじゃないなー、って思う。
なんかねー。
ビッチを、「汚れ」か「純真」かのどっちかの極端なキャラにしないで、もっと「フツー」の枠に入れて描いて、って思った。
現実的なビッチは、とても現実的に生きてると思うから。