無自覚な奇蹟
三鷹の事件。
そのことについて書かれたものとか、ネットでいろいろ見てたけど、自己責任論好きな人って、なんでそんなに自分の「責任能力」に妄想抱けるのかなー、って思った。
「自業自得」って、自己責任論でしょ。
今生きてる自分って、生きる能力が優れてたとか、うまく生きるための知能が高かったとか、そんなことじゃないと思う。
今の自分がすっごいトラブルもなくて、トラブルの被害者になった人に自業自得なんて言えてるその安全な「自分の今」って、奇蹟、だから。
「幸運」が真珠みたいに連なってって、どの幸運の玉も瑕がなければ、すごいきれいなネックレスができる。
でも、だれかがそれを妬んで、幸運の真珠の一粒を汚したり、真珠玉を盗んだり、連なってるのを断ち切ったりすることもある。
そしたら、もーそれは、きれいな真珠のネックレスにならなくなっちゃう。
きれいなままの真珠の玉もばらばらに落ちて、いろんなところに飛び跳ねて、自分の手から消えて。
今までだれからも殺されなかったのは、たまたまの幸運。
殺された人に自業自得論を「正論ですよ」って顔で言ったりするとね。
それ、ネットっていう、自分にすぐ手の届かないとこで言うから、「正論」口にした自分の安全守れるけど。
遺族の前とか、亡くなった人をとっても好きだった人の目の前で言ってみなよ。
殺されなくても、殴られるかもしれない。
殴られもしなくても、それ言われた人の心の中で「おまえが死ねばいーのに」って殺意が湧くかもしれない。
そーいう、人を貶める発言をしても、自分が無事で、自分の人生がきれいなままでいれるのは、自分が賢いからじゃなくて。
殺意を抱いた人の理性が、殺意を抱かれた人のきれいな人生、守ったりしてる。
それは、幸運、でしょー。
とてもありがたいことでしょー。
事故にまきこまれてないで生きてこれたのも、自分の知恵のせいばかりじゃないし。
自分の気づかないいろんなものが、結果的に自分を守ってたりするよね。
車運転してると、いつもそれ思う。
自転車でいきなりとびだすおじさんとか、轢かれないで生きてるの、車がよけてあげたから、だし。
運転してる人が自分の危険かえりみないで、急ブレーキ踏んで、飛び出した人守ってたりするし。
そんなこと、ざら、だから。
でも、そーいうおじさんが、家に帰ってニュース見て、「この被害者は自業自得じゃないか」ってしたり顔で言ったりする。
自分はなにも落ち度がなく生きてこれた、って思ってる人のほーが、自分のこと、なにも考えてないし、なにもわかってないよね。
聖者でもない自分が、ずっと生きてきて、だれからも暴力も受けないで、殺されもしない、っていうの、奇蹟なのだから、その奇蹟に感謝できたら、その奇蹟を失った人を叩けないと思う。
ちょっとあの事件で具体的なこと書くと。
つきあってた人とえっちいな写真撮っちゃうことと、ストーカーに殺されること、は、なんにも因果関係ないから。
ストーカーになる人って、フツーじゃないから。
ストーカーって、被害者側で防犯できることじゃないから。
それわかってない人が、ストーキングは防げたかも、って考えをもつんだろーね。
だから、えっちいな写真撮らせたのがバカだ、っていう自業自得論に繋げちゃうんだろーね。
写真、っていう「自分の手から離れちゃうあとで消せない物」のことは、それはそれで考えることだと思う。
でも、ストーカーに殺されるのって、写真とかそーいう弱みを渡しちゃった過ちとか関係ない。
人に対する異常な執着とかって、どんな理性をつきつけても、それが通じないから「異常」なんだよね。
男とは性欲の塊だから、女は犯されないよーに気をつけて道を歩け、ってことと、同じだと思った。
交際中のえっちいな写真のことを、ストーカーで殺されたことに結びつけて批判してる人は。
えっちいな写真が生み出すトラブルは、それだけで論じればいーし。
でも、えっちいな写真をつきあってる人と撮った、ってことが「過ち」だとして、その過ちは、殺されてしかたないってほどのものなの?
「自業自得」っていう言葉を使ってる人は、自分の命も安く見積もってるよね。
自分もちょっとした過ちで、人に殺されちゃってもしかたありませんよー、って。
それなら、人が亡くなった時、亡くなったという結果を見てから「自業自得」っていう発言をするのが「とっても正しい」って思ってる人も、「おまえなに言ってんだ」って怒る人に殺されちゃってもしかたないよね。
だれだって、なんの落ち度もなく生きていれるわけないから。
自分で気づいてなくても、ぜったいいろんな失敗、してきてる。
その失敗の痛手を受けずに生きてこれた人は、たまたま自分のまわりに自分の落ち度をゆるしてくれる寛容な人(ゆるされる環境)が多かった、ってことだと思う。
自分が恵まれてる自覚をもってない人は、人の不幸を簡単に裁いちゃう。
ストーカーに殺されないこと。
その方法を考えるんなら、ストーカーを刺激しないよーにすること、とか、ストーカーに弱みを渡さないよーにする、ってことじゃないから。
ストーカーになる異常な精神状態に気づいたら、それにどんな治療ができる?
ってこととか、
ストーキングされたら、どーやってされた人を社会的に守れる?
ってこととか。
そーいう視点で考えないと、ひとつの事件に対していろんな人が「被告×原告」にわけて頭の中で裁判やって罪の相殺の比率を論じあっても意味ないし。
どんなにちゃんと生きてるつもりの人だって、いつだれにストーキングされるかわからないから。
ネット見てても、「人の異常な執着」って目にするでしょー。
自分が読まなければいいだけなのに、自分で読み続けて、書いた人を叩き続ける、っていうの、いろんなところで見る。
(自分がやられたとかじゃなくても)
「書いた人→読んだ人」には、個人的な感情なんてぜんぜんなくても、
「読んだ人→書いた人」には、すっごい個人的な感情ぶつける。
これがいきすぎると、一方的な執着になる。
その執着が、向けられた人に実害がでてくるほどだったら、リアルなストーキングとかわらないよね。
お店でも、マニュアルどーりのフレンドリーな接客をしただけで、
「自分に気がある!」
って思って、お店の外で待ち伏せするぐらいの人って、わりといる。
相手は接客してるだけ、って思えない人が、こんなにいるのー?ってびっくりするぐらい。
でもそーいう勘違いしちゃう人って、別に見た目に異常さ漂わせてたりしないで、フツーの社会人に見えてるし。
いじめられないこと、痴漢されないこと、犯されないこと、殴られないこと、殺されないこと。
それは「されなかった人」が偉いから、じゃないよ。
いろんな人の理性と、いろんな幸運が、「されずにすんできた人」を守ってきただけ。
自分の力じゃないんだから、それは「奇蹟」でしょー。
言いたいことも言えないよーじゃ、って、「自分がこれからなにか言っても安全は守られたいです」っていう前置きの宣言しながら、「自業自得論」を放つ人って、矛盾してるよねー。
自分がどんな発言しても、その安全を守りたいなら、「人の過ちつついて、人の行動の規制を要求する考え」ってすごい矛盾してる。
今、とても無事な人は、人からゆるされて生きてきた人。
だから、そんな自分がだれかになにかできるかって考えたら、人の脆弱性を叩くことじゃなくて、どれだけ人の弱さを受けとめれるか、ってことだと思う。
そして、憎むべき罪の的を間違えないこと。
殺されちゃった理由を並べる前に、「どんなことあっても人が人を殺してはならない」っていう目で、他人のことを見ていたい。
人が殺されちゃってもいー理由を、この社会に増やしていけばいくほど、自分の命だって守りきれなくなるよ。