Timber
Re:だれもいない森で倒れる - よりぬき鬱日記
だれもいない森で倒れる木に、「Timber!!」って叫ぶ声が、木が倒れた事実を作る。
自分が書く言葉は、自分の所在をあらわにするよね。
その言葉が真実とは限らない、ってこの前書いたけど。
ネットの私、っていうのが、そーいうことなんだ、ってさいきん、すごい思う。
私がこのアカウントを取得して、自分のブログにいろいろ書きだして。
そしたらその「私」を、私が書いた言葉を読んだ人たちが、あれこれ思い描く。
-ほんとはおじさんじゃないの?
-書いてること、ぜんぶ作り話じゃないの?
そー思う人たちの中で、私がいくら「女子ですよー」って言っても、私は女子として存在しない。
おじさんがパソコンの前で一生懸命女のふりして文字を打ちこんでる姿を、想像されてるかもね。
-えっちな女は特異である。
って思う人の中で、私は特異な女になっていて、こんな女になにか言ってやらないと気が済まない意気込みをだれかの中に熱く抱かせて。
素の私のままではだれかの中で許されない存在になってたりして。
-純粋。
そんなふーに、私のことを言った人もいた。
-とんでもない。ものすごい黒いですよー、この人。
って言った人もいた。
そーいう人たちは、みんな、おなじ「私が書いた言葉」を見てるのに。
でも、読む人の中で、いろんな捉え方がばらばらで、私というキャラクターがいろんな姿につくられる。
私が書く言葉は、「ここに私がいます」っていう自分の所在を示すけど、その「私」の像そのものが、「20代女子」って確定されもしない。
機械が勝手に作ってる文章ではないことだけはわかるよね。
だから、だれか人間が書いてるんだけど、その「人間」の解釈が読み手によってばらばら。
私はそんな反応をいろいろ見て、「ほんとの自分」と「人が語る自分」の距離を楽しんだり。
こんなに不確実なものはないなー、って、「言葉」に対して、思う。
言葉なんてなくても私は存在してるのに、ネットで自分の存在を示すために、言葉を使う。
ティンバー!
って、私がネットの森で叫んだから、ここに私という木があるのをほかの人たちに知らしめる。
言葉は面白くて、言葉でなにができるかそれを探るのが楽しくて、言葉でできることを信じて。
でも、それと表裏一体で、言葉ほど頼りないものはない、って思ったりして。
ほんとにいるかいないか、わからないものを、そこに書かれた言葉だけで信じる。
その言葉だけを頼って、その言葉を書く人を想像し、その想像した人物を評価したりdisったり。
その読み手がよりどころにしてる「だれかが書いた言葉」は、その言葉を信じてることが前提になっていて、その言葉が信じられるものでないならば、それをよりどころにしてる自分の思考にもなんの根拠もなくなる。
ネットで二度となにも書かなければ、そこで存在が消失する。
リアルで生きてたとしても、ネットに二度とあらわれなければ、ネットでしか私を知らない人の中で「私」はリアルタイムで存在しなくなる。
言葉のみでしか存在を示せない世界では、それぐらい儚い存在でいれる。
ティンバー!
って自分が声をあげるから、自分の木が人の目に触れる。
声をあげるのをやめれば、そこに存在するものが、人から見えなくなる。
なかったことになる。
自殺という消失の選択の鍵を自分が握ることで、自分が他人の中に存在することに、なんの価値もみいださなくなる。
私はいつか自分が消える自由を手放したくないから、自分に価値をつけない。
いろんな人が、私の書く言葉で私の姿を想像して私を創る。
私は、人が創った私を、見る。
人の中で自分の虚像を見て、自分という存在に、なんの意味もないよね、って思う。
意味もない存在が、言葉によって、なにか意味があるよーに見せられる。
自分に価値がないっていうのは、どんな意味からも自由でいれて、だから言葉を捨てた時がいちばん強くなれるのかもね。
Pitbull - Timber ft. Ke$ha - YouTube
またこのPV(^_^)
好きなんだもーん(^_^)